3.貧困の背後に目を向けよ。

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●山本 これまで、佐藤先生が研究の世界に進まれることになった経緯などをお話し頂きました。今回は、佐藤先生が最初に取り組まれた研究プロジェクトについて伺ってゆきたいと思います。

●佐藤 貧困の問題ですね。私は十五年ほど前に、「貧困と法」研究会を名古屋大学で立ち上げました。

●山本 貧困というのは、社会問題のなかでも古典的と言いますか、いつの時代にも如何なる場所においても意識される問題です。

●佐藤 そうですね。一見すると豊かであるような国や地域にも、貧困は様々に存在するものです。

●山本 この数年、特に格差の問題が注目を集めています。アメリカでは大規模なデモが起こり、日本でも一億総平民という時代は終わったと言われます。トマ・ピケティのように、資本主義経済の矛盾を鋭く指摘する論客が、メディアで引っ張りだこになっています。

●佐藤 グローバル経済の問題は良くわかりませんが、経済というのは、本来は経世済民、つまり「世を経(おさ)め民を済(すく)う」というように、今日でいうところの政治や行政など、公の統治に関わる内容をも幅広く含んでいたんですね。お金や資本の流れや分配は、その意味では統治の問題そのものであるべきものなんです。

●山本 そうすると、貧困というのもまた、統治の問題であり、課題である、と。

●佐藤 そうです。ところが貧困の問題を、法の問題に還元して専門的に取り組もうとする研究は、未だに十分ではないという印象があります。特に法学の専門分野からは、直接的に実定法が関わりを持つ問題以外はなかなか扱いにくいというのがあったのでしょう。

●山本 私は当時、佐藤先生のリサーチ・アシスタントとして、先行研究調査にまず取り掛かった記憶があります。当時、救貧法や、いわゆる社会福祉にかかる法に関する研究はもちろんありました。人権のなかでも社会権に関する研究は当然ながら確立された分野を形成してもいます。一方で、グローバル経済や、いわゆる開発法学などの南北問題の文脈から貧困の問題にアプローチする分野の研究は、どちらかというとマクロの視点で問題に迫ろうとするものが主流でした。

●佐藤 そうなんです。ミクロ、マクロというのは大雑把な話になりそうですが、しかし問題の本質を突いている。前回までに少しお話ししたように、貧困というのは結局、権力や正義への距離として把握すべきものだと私は考えています。もちろん、お金がなければ話は始まりません。しかしお金だけが貧困と富裕を切り分けているかといえば、明らかに違います。順序からいえば、権力がまずあり、それを具現化する道具としてのお金があり、お金は様々に個々人の能力開発を時に制約し、時に促進する。そして能力は権力の再生産に正当性を与える。この一連の流れを意識することが重要なのです。したがってどうしてもまず、マクロ的に問題を把握する視点が主流になるわけです。

●山本 その主流的な先行研究の成果を踏まえつつも、佐藤先生はミクロの視点をこの問題の分析のために新たに導入することを試みられたわけですね。

●佐藤 そうです。これも前回少し話題に出ましたが、結局のところ、その権力や正義までの距離というのは、その距離を感じる個々人の価値観を抜きに論じることができないはずなのです。GDPや就学率など、全体の状況を見るためのマクロ的なデータでは、実感としての豊かさや貧しさを必ずしも十分に把握することができない。そういう感覚と、問題の根っこは同じなんだと思います。

●山本 佐藤先生が「貧困と法」研究会を立ち上げられたのは二〇〇一年の、ちょうど米国での同時多発テロの直前だったわけですが、その後、世界はテロに象徴されるように、さまざまなレベルで分裂・対立してゆく社会の問題に直面することになりました。私は国際開発研究科の大学院生でしたので、開発問題の文脈から、貧困や格差の問題は常に意識していました。激動的な変化というんでしょうか。当時の世界情勢についてはよく覚えています。

●佐藤 国連を舞台に「人間の安全保障」を推進しようと日本政府が働きかけていた頃、九〇年代の終わり頃から特に日本は力を入れてきたわけですが、それには伏線があったんですね。五〇年代、六〇年代のアジア・アフリカにおける植民地独立から、七〇年代にかけての新国際経済秩序の追求のための連帯、そして八〇年代の開発独裁の顕在化を経て、冷戦の終結。良くも悪くも大きな世界秩序というものが崩れ、次なる秩序の模索が始まった混沌とした時期ということができるでしょう。私たちの「貧困と法」研究会は、その意味で、その後の九・一一や「人間の安全保障」への流れに先駆けていたことになりますね。

●山本 二〇〇三年には「人間の安全保障」委員会が『人間の安全保障の今日的課題』という報告書を採択し、国際社会がミクロの視点で社会問題に取り組むという明確な方向性を示しました。さらに二〇一一年になると、国連総会は幸福に関する決議を採択し、二〇一二年には「人間の安全保障」の定義を定めるなど、個々人の視点に分解された生活の重要性を強調する流れが生まれました。

●佐藤 その流れを偶然と見ることもできなくはないですが、おそらく歴史の必然だったのでしょう。「貧困と法」研究会は、そうした流れを少し先取りする形で、貧困を権力や正義へのアクセスの問題として捉え、徹底してミクロの視点で法の問題を追求してきました。たとえばインドネシアの住民が原告となり東京地裁に提訴されたコトパンジャンダム撤去訴訟。最高裁までもつれ込んでいましたが、つい先日、原告の敗訴が確定しましたね。従来の開発問題の枠組みに加えて、法がどのように個々人の生活を守るための機能を発揮できるのかが問われた、典型的な事例でした。

●山本 少し柔らかい例を使ってみたいと思うのですが、法というのは結局、サッカーやフィギュア・スケートなどの競技のルールと同じで、ゲームの決まりごとですから、絶対に正しいとか絶対に間違っているとかいうことではないんですね。結局のところ、そのルールが誰にとって有利で、誰にとって不利であるか。これに尽きるんだと思います。

●佐藤 そうなんです。それで、そのルールの有利、不利を見極めるためには、ミクロの視点がなければならない。当然のことですが、しかしミクロの視点というのは小さな視点に過ぎないため、軽視や無視の対象となりがちです。しかも個々人の事情や価値観というのは、一般化も難しいため、なんらかの法則を導き出そうとする科学の立場からは、ルールが個人に及ぼす影響は注目されにくいのです。そして、強い立場の人から、わざわざルールを変えようなどという声が上がるわけもなく、一方で、弱い立場の人々の事情など配慮されにくい。

●山本 たとえば柔道のルールが改訂されれば、それまで常勝だった選手が、場合によっては勝てなくなる。逆にそれまで負け続けていた選手が、場合によっては常勝選手となる。ルールは変えられることがあるわけです。ところが、社会のルールを変えるとなると、権威や正義というものが邪魔をしてしまう傾向があるように思います。その権威や正義というのは、それまでの社会で力を持っている人々にがっちり握られてしまっていることが少なくないので、ルールを変えることをそもそも現実的に意識しにくい、というのがありますよね。

●佐藤 脱構築、というのはまさしくその議論です。私たちが当たり前と思っている世界は、実は結局のところ誰かにとって有利で、誰かにとって不利なルールを前提に成り立っている。そのことを、様々に描き出そうとする試みなわけです。

●山本 佐藤先生は一時期、クロード・レヴィストロースの『野生の思考』や『悲しき熱帯』などの構造主義系の研究や、脱構築論にはまっていらっしゃいましたが、そういう問題意識があったわけですね。

●佐藤 ははは。恥ずかしながら、聞きかじりです。むしろ、弁護士や、国際機関などでの実務による実践智とでもいうものでしょうか?私は初めから社会科学、いや法律学はそれですらないとも言われますが、そもそも真理などというものは望めないと思ってきました。基本的なことですが、学問でさえも、権力構造の中にある。主流的なものの考え方、マイノリティの考え方。凝り固まってはならない。単一で絶対の正義などない。ルールの相対化、ルールが前提とする価値を描き出し、その価値を問いただすこと。いってみれば、ソクラテスの「無知の知」を求めるということでしょうか。この営みこそが、社会科学に求められている、地味ではあっても弛みなく続けなければならないものなんだろうと思います。

●山本 私から見れば、佐藤先生の魅力の一つに、人を肩書きや過去の実績などで判断しないというのがあります。性格的なものかと思っていましたが、実はそうではなくてあらゆる価値に対して意識的であり、懐疑的である、そういうことなんでしょうか。

●佐藤 まあ、そういうことにしておきましょう。山本さんは法学部卒ではないし、私もそうです。法学部を卒業していないというだけで、法学者として認めない、というのは、了見が狭いというだけではなく、合理的ではない考え方ですよね。ましてや、法曹資格、一回きりの司法試験で、社会的身分をつくるようなやり方は、明治維新でその歴史的使命は終わっていると思いますが、未だにそれにしがみついている。機能が重要なはずなのに、権威が邪魔をしている。その典型的な場面が、学歴や職歴で人を見ることなんだと思います。勿体無いですよね。人の能力はそんなことで決まりはしないはずなのに。

●山本 よく知らない人の能力を判断することは難しいので、どうしてもその人がそれまでどのような学歴や業績を残してきたのかを見るというのは、よくあることですよね。ですが、突き詰めて考えると、学歴や業績というのは結果でしかないので、それだけを見ても、どういう理由で、どういう経緯で、その結果が導かれたのかは分からないわけですよね。ずるい人、うまい人、逆に不器用な人、あるいは、前例や常識にあまりこだわらない人。能力とは別の要素が結果に影響していることは十分にあるわけで、そう言う意味では、結果を重視しすぎるのは危険ですね。

●佐藤 そうです。貧困も同じです。結果でしかないのです。貧困は恥ずべきことでもなければ、哀れみの対象でもない。貧困自体は結果でしかないので、その原因を見極めねばならないのです。つまり社会の機能や仕組みが、貧困を作り出している。そしてその状態が、実は権威によって支えられてしまっている。しかも法は客観を装いつつ、その権威を補強する。そうした、貧困を作り出す仕組みやルールをそのままにして、「弱者」としてレッテルを貼られて、抑圧され、疎外されている人びとを解放しなければ、本当の貧困対策は見えてこない。貧困者に対する施しは対処両方でしかなく、問題の根治にはならないわけです。価値観に対する意識から変えてゆくこと。そのためには、現場が重要です。文献研究だけで問題に迫るには、自ずと限界があります。

●山本 「書を捨てよ、町に出よう」ということですね。とはいえこの言葉には、捨てるまでは書をさんざん読んでいるという前提があるわけで、ただ町に出てもしょうがないですが。

●佐藤 あ、耳が痛い!うまいこと言いますね。そうです。書を徹底的に読んで先行研究を踏まえ、問題意識を高める。しかしそこで満足などしない。書の中に描かれた世界が背景とする正義観や価値観を相対化するために、特に貧者、弱者とされる人びとの目線から批判的に「強者の書」を見るために、フィールドワークが欠かせないのです。

●山本 法学研究者でありながらにして、フィールドワークを重視する佐藤先生の研究スタイルは、そんな深い考えに支えられていたんですね。次回はさらに突っ込んで、佐藤先生の研究の真骨頂とも言うべき平和構築研究について伺ってゆきたいと思います。img_3139