2.法とは何だろうか。

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●山本 佐藤先生は弁護士としてキャリアをスタートされ、現在は研究者としてご活躍というところまで前回お話をいただきました。今回はさらに踏み込んで、より根源的なことも伺ってゆきたいと思います。

●佐藤 なんでしょう。緊張しますね。おてやわらかにお願いします。

●山本 すこし大げさな前置きになってしまいました。法とは何か、これを佐藤先生から伺いたいと思っています。法律家はそれぞれ、法について考えるところがあるものです。

●佐藤 法というのは、まず日本語では法ですが、英語ではとりあえず、ロー、ということですね。実定法という場合はポジティブ・ロー。これは機能的に有効な法のことです。つまり名前に法とついているというだけでなく、拘束力があるものという意味で実定法が重要になってくる。

●山本 いわゆる実定法主義ですね。法律家という場合に、弁護士のような実務家の場合はやはり空理空論とならないように気をつけるわけで、法を実定法に限定して考えるというのは、当然といえば当然ですね。

●佐藤 山本さんはよくご存知と思いますが、実定法主義には理由があるとしても、実は問題もあるんですね。

●山本 そうですね。機能的に有効な法、という場合に、まず、本当にそれが見えているか、というのがありますね。ある人から見れば機能的に有効だとしても、また別の人から見ればそうは見えない、というときに何を機能的に有効な法と見定めるか。まず一つそういう難しい問題が出てきます。

●佐藤 私たちはその点で、実はものの見方の押し付けをしてしまっていることがあります。例えば地域社会や伝統的な規範のなかにも、実は十分に機能的に有効な法はあります。ところがそういうものを実定法には含めない、という考え方をついついしてしまいがちです。

●山本 慣習法の議論ですね。議会制定法や、英国などコモンローの国での判例法という、国家法に限定して法を捉えるのではなく、その土地その土地に実際に生活する人々にとって有効な規範に目を向ける必要がある、という問題意識ですね。

●佐藤 そうです。「生ける法」という考え方。これはオイゲン・エールリッヒという法社会学の父ともいわれる方が提唱した非常に重要な法の概念です。ですが白状しますが、私は学生時代、法学部でもなかったので、ロンドン大で博士の学生として勉強するまで実は知りませんでした。

●山本 佐藤先生が「生ける法」を意識するようになった場面を、よろしければ教えていただけないでしょうか。

●佐藤 前回すこしお話しした、カンボジアです。1992年のUNTACに私が参加した当時のカンボジアの人びとは、ほとんどが日本では想像できないような貧しい人々でした。現在だけでなく、将来も閉ざされたような貧しさの中に暮らす人々。彼らは、近代法の建前、つまり法の下の平等であったり、人権であったりという概念上は、形式的にはそれらを保障されているはずなのですが、現実はもちろんそんなに甘くないわけです。たとえば裁判所。貧しい人々には、裁判所を実際に使う知識もお金もない。いや、私がはいったときは、裁判所はぼろ小屋で、私たちが認識するような裁判官もいません。職業裁判官のほとんどは、クメールルージュ時代に殺されて、法を学んだことのない、裁判所の守衛さんなどが裁判官として形式上いるだけ。給料らしいものすらもらっていない。裁判もやったこともないということでした。

●山本 法への「アクセス」の問題ですね。どんなに立派な法であろうとも、それを使えなければ意味がない。使おうにも、手を伸ばそうにも、制度までの距離があまりに遠い人たちがいる、あるいは制度そのものが機能してない。

●佐藤 そうです。つまり近代法がいくら立派な理屈を並べ立てても、実際の「アクセス」が困難であれば、絵に描いた餅です。そこで、法が社会で実際にどのように機能しているのか、していないのかを研究する、「法社会学」が重要になります。わたしもそれに気付いて遅まきながら博士の研究をする上でこの辺を勉強し直しました。その時に出会ったのが、和田仁孝『法社会学の解体と再生:ポストモダンを越えて』弘文社(1996年)です。難解ながら、近代法絶対の私の頭をかち割ってくれたわけです。実際、明治維新に欧州から近代法を、戦後は米国から、民主的な法の支配を学んだとする、この日本ですら、実務に携わればすぐにわかりますが、そんな教科書通りというか、大学の授業で習ったようには到底機能はしていないのです。ただ日本には、形はある。当時のカンボジアでは、形すらないという状況でした。

●山本 エマニュエル・カントは、法の存在と、それが実際に適用されることとの間には、千里の逕庭(けいてい)があるという言い方をしています。佐藤先生はカンボジアで、その千里の逕庭を目の当たりにされた、ということでしょうか。

●佐藤 お、今度は法哲学ですか?カントはそんな言い方するんですね。そうです。千里というのは、法や権力に近いところにいる人々からは、そのようには感じないことでしょう。しかし貧困というか弱者というか、そういう立場からみれば、まさに千里の逕庭です。

●山本 ちょっと哲学的になってしまいますが、まさにカントの世界観ですね。カントは言っています。「空間」とは、物質的・客観的なものではなく、人が自身の経験を整理したり伝えようとするときに作り出す観念に過ぎない、と。したがって、遠いも近いも、それを感じる人の感覚を無視して語るべきではない。

●佐藤 そういうことですね。ようするに近代法に対して距離のある人や地域があるわけです。しかし法そのものがないわけではない。その社会に根ざした問題解決の方法、すなわち慣習法を知り、それを尊重しつつ人権や法の支配といった価値観と調和させるための努力が重要なのです。

●山本 そうなるともう、司法試験で問われる知識とはまるで異なる発想が必要になりますね。もちろん近代法の存在を否定するわけではない。しかし近代法を絶対視するのではなく、それを当てはめようとする社会をしっかりと捉え、法の妥当基盤を知ることが重要になってくる。近代法が常に有効であるという、ある種のフィクションは通用しない。

●佐藤 そうですね。それで、重要なことは、簡単に言えば「弱者目線」となるのでしょうが、実はそれだけではない。弱者というよりも、物事に一つの正解を定めるのではなく、立場や見方によって様々な正解があることを知ること。それがより本質的な課題です。様々な立場を知り、受け入れること。多様性とそれを受け入れることのできる柔軟で寛容な考え方こそが重要であることを、カンボジアでは嫌というほど思い知らされました。

●山本 賄賂や汚職。これらも場合によっては慣習法と言えるほどに地域によっては浸透しているものと聞きます。近代法においてはそうしたものは当然ながら否定されるわけですが、カンボジアではどうだったんでしょうか。

●佐藤 こんなことがありました。国連が、現地のスタッフの採用を行うわけです。国連ですから、現地の一般的な水準よりもかなり高い給与がもらえるんですね。そうすると、その採用をめぐって一悶着(ひともんちゃく)あるわけです。

●山本 職を斡旋する代わりにそれなりのお金をよこせ、というような話でしょうか。

●佐藤 そうですね、いわゆるキックバックということです。日本が主導して設置され、実質法大半の経費を負担してきてる、いわゆるクメールルージュ裁判では、国際判事と国際職員、現地カンボジアの判事と現地職員がともに勤務するわけですが、現地職員の採用を巡っては、もちろん、給料は現地のレベルでは破格に良いわけですから汚職の噂が絶えませんでした。採用後給与の一部を採用で世話になったひとに付け届けするというようなことです。実際、そのような汚職を理由に、国連は資金提供をストップして、給料すら払えない事態を招き、日本政府がお人好しに緊急支援するようなことも度々だと聞いています。私たちからすれば、立派な汚職でも、カンボジアの人びとにとっては、まあ当たり前の慣行、言って見れば、日本でもある贈答文化といえなくもありません。最近でこそ、私ら先生も生徒からの贈り物やお土産などはできるだけ受けないように気をつかってますしね(笑)。

●山本 なるほど。まさに「生ける法」の世界ですね。近代法を押し付けるだけではうまくゆかない。とはいえ人権や法の支配といった理念について妥協するわけにもゆかない。

●佐藤 そうです。そこで、問題は、何が理想であるべきかということもさることながら、その理想をどう実現してゆけるか、ということになってくる。前者を突き詰めるのが学問、後者に重点を置くのが実務、という風に私は実感しています。

●山本 学問にも、問題解決志向のアプローチ(solution oriented approach)ということはありえます。佐藤先生はそれを目指して研究の世界に飛び込んで来られたというわけですね。

●佐藤 そういうことになりますね。ただし、問題解決志向のアプローチの場合、どうしても目の前のことに興味をそそられがちで、本質的な議論ができないことが少なくありません。実務の場合はそれはある程度はしょうがないことなのです。そこを深く掘り下げるために、私の場合は学術研究に興味を持ったわけです。

●山本 実務的な課題に、学問の専門性を動員して取り組もうとする佐藤先生の基本姿勢の原点がすこしわかったような気がします。これまでのご研究の軌跡にますます関心が湧いてきました。

『3.貧困の背後に目を向けよ。』に続く